シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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日本の依頼で誕生した世界初のマイコン 4004 と "印籠効果"

2008年08月14日 | 電子産業は花形?
写真左上は、『i4004』を搭載したビジコン社のプリンタ付き電卓。 当時で1台15万円ほどの価格だったが、販売成績は好調だったという。 右上は嶋正利氏。 右下は「MCS-85 System Design Kit」。 左下は世界最初のマイコン i4004。
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黎明期のマイコンの販売を、私も微力ながら お手伝いした経験があります。 当時は電子機器の何にでもマイコンを組み込むのが大流行りで、後から思い起こすと 画期的なマイコン登場で電子業界全体が酔っているかのような、ある意味 “革命” ともいえる時代でした。
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「エンジニア type 2005年6月号」より抜粋 __ 嶋氏は、ビジコン社で電算機部門に配属され、6カ月間の新人研修で Fortran や COBOL、アセンブラなどの言語をはじめ、コンピュータの基礎を叩き込まれた (※追加1へ)。
「電卓博物館」から __ 141-PF は、世界で最初のマイクロプロセッサ Intel 4004 を搭載した電卓である (※追加2へ)。
「世界初のマイクロプロセサ “4004”」(8月7日 日経エレクトロニクスが目撃した電子産業・歴史の現場) __ ※追加3へ

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マイコンの立役者の1人 嶋氏も私がいた代理店へ来社されて、わざわざ営業の若手に説明されたのを拝聴した記憶があります。 当時はインテル社に所属し、確か 日本の研究所長をされておられました。 その後 ザイログ社へ転職、更に VM テクノロジーを設立して、インテル派生型の独自のマイコン製造販売を手がけましたが、これは成功しなかったらしいですね。
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日本では 1960年代後半から70年代前半にかけて、電卓の新製品の発売が相次ぐ電卓戦争といわれた時代で、4004 は出るべくして出た製品だったのでしょう。 電卓には4ビットで十分でも、電子機器の汎用的な組み込み用マイコンとしてはビット長が少な過ぎて向いておらず、あまり採用は進みませんでした。

8ビットの 8008/8080 が多くの機器に採用されたのを見て、日本の IC メーカーの多くも独自のマイコンや、インテル製と全く同じマイコンを発売しました。 当初 本家インテルはコピー MPU を歯牙にもかけず、黙認していました。 ソ連も 4004 か 8008 をコピー生産していたが、バグも一緒にコピーしていたというオチが付きます。
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電卓で思い出すのは、 70年代後半だったと記憶しますが、カシオが初めて発売したカード電卓を買って 個人用に持ち歩いていました。 ある顧客 (通信機器メーカーI社) の資材担当者に「今では、こんなに薄いのもあるんですよ」とお見せしたところ、「ナンだ、こんなもの 簡単に折れちまうだろう」というが早いか、本当に折って壊してしまいました。「あっ! …」と私はいうだけで、何も抗議できませんでした __ 何しろ相手は顧客という強い立場なのです __ いくら発注額が少ないといっても。

暫くして、同じ担当者を訪問すると異動していました __「営業に回りました」とのこと。 異動先で営業という弱い立場を実感したことでしょう。 また こんな性格の悪い人はどこへ行ってもつとまらないでしょう。 私にとっては カード電卓代 ¥6,500 は人生勉強の授業料でした (今では 100均でも買えるようなシロモノですが)。
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70年代後半 インテル社からマイコン入門用の「MCS-85 System Design Kit」(¥10万強) なるものが発売され、注文が殺到しました。 会社でも営業部門の何名かで1台ずつのキットを組み立てたが、内蔵されているプログラムは、テンキー入力を基板上の7セグ LED に表示するだけで、あまり面白みがなく 拍子抜けしてしまいました。

社内の担当エンジニアに「電卓機能などはないのですか」と聞くと、「そういうプログラムを作って ROM に書き込んで実装してやれば、電卓になる」と当たり前のことをいってましたが。

つまり何もしなければ、「A」キーを押すと表示が「A」、「1」キーを押すと表示が「1」になるだけで、そのうち実験室の机の上に積まれて そのままになってしまいました。 廃棄処分にならず、組み立て済の基板でも構わないという熱心な顧客がいて、完売しました。 というのも、これも類似品 (後述) がすぐに出て、インテルはまもなく廃止品にしたからです。

NEC はこれもコピーして「SDK-85」(¥8.5万) を発売、大いに売りまくったようです。 また自社製 PC にもインテルのコピー MPU を採用して販売、コピー MPU も単独で販売していました。 インテルから提訴され、長く争っていましたが 最終的には撤退しました。
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私は販売部門にいたから、顧客の姿勢を肌で感じることが多かったですね。 顧客にも社風があって、マイコンを電子機器に組み込む (デジタル処理する) のに積極的な顧客と、そうでない顧客があって、デジタル処理をせずに旧来のアナログ処理のままで設計を変えない顧客の多くは時代に取り残されていったように感じます。

アナログ処理にもいい面は多いのですが、色々な環境の変化で処理の精度性能が変わるのは避けられません __ 例えば 温度が上がったり 湿度が高くなると誤作動に繋がるとか。

自動車メーカーも最初は採用に慎重でしたが、今では一台当り数十個の MPU を採用しているのが普通です。 なにしろ 今どきの MPU は安い。 大量生産品なら数十円から腐るほどあります。

今はアナログ処理よりも、デジタル処理のほうがコストを安くできるのが普通で、この趨勢を見通せなかった顧客は衰退の道を辿るしかなかったのです。
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デジタル製品は発売当初 高価ですが、量産が進み、歩留まりが上がる (良品率が上がる) と、急速に (桁違いに) 安価になります。 DRAM がその典型例で、発売当初 数万円が最終期には 数百円となります。 半導体であれば、この価格の推移は避けられないからです。

インテル社は最終的に、自社が開発・発売し育てた DRAM / EPROM 製品から撤退し、MPU とその周辺素子に注力する方針を取りました。 日本支社も大手の PC 顧客は直販体制の方針を取り、私がいた販売会社は代理店契約を打ち切りました。

インテル製品の取扱いを止め、他の製品販売に注力して初めてインテル社の “印籠効果” を感じました。 というのも、インテル製品の話しであれば 即 訪問説明に応じる顧客は多いのですが、他社の製品と聞くと 必ずしも そうではなかったからです __

“印籠効果” とは私が勝手に付けたもので、水戸黄門 TV シリーズで毎回番組の最後で、素性を明らかにしていなかった水戸黄門 (水戸光圀) が、これが見えぬかといって “印籠” を見せると、刀を抜いて敵対していた悪党たちがへへ〜っと土下座してメデタシめでたしで終わる事をいいます。

以上


※追加1_ 次に 電卓部門に異動しことが大きな転機となった。 電卓業界が熾烈な競争を展開していた当時、入社2年目の若者が10進法コンピュータ・アーキテクチャと ROM を使った、プログラム論理方式のプリンタ付き電卓を開発したのである。

その翌年 嶋氏のプログラム論理方式を進化させ、インテル社と共同で新たな汎用 LSI を開発するために渡米。 「当時のインテルは、メモリ開発においては世界でも最先端の優れた技術力を持っていましたが、論理向け LSI 開発となるとまったく話が違う。 論理設計ができる技術者がそもそもいなかったんです。

2カ月経っても解決策が見つからず途方にくれていたある日、インテル側の担当者であるホフ博士が4ビット CPU の基本アイデアを思いつく。 だが 論理設計の知識がなく、実現化できない。 唯一それができたのが嶋氏だった。 こうして71年に誕生したのが『i4004』。 嶋氏27歳での快挙である。

ビジコン社はこの 4004 の独占販売権を、研究開発費である6万ドルと引き換えにインテルに渡す。 インテルの発展はここから始まったといっても過言ではないだろう。

そして 4004 の完成を機に帰国した嶋氏に、インテルから再渡米の要請が来たのは72年のこと。 「帰国後はリコーに転職し、8ビットのミニコンの経験を得てノウハウはわかっていたので、できる確信はありました。 今回は論理設計から回路設計、レイアウトまでやらせてもらうことを条件に承諾しました」

11月の渡米後 19.6mm 角の基板に 5,500個 の Tr を論理的に配置し、電子回路化していくという精緻な作業を数カ月間続けた。 文字通り目が回るほど忙しい思いをして、74年1月にようやく完成させたのが、今日の PC 誕生のキーテクノロジーとなった『i8080』である。
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※追加2_ 当時いくつもの企業へ電卓の OEM 製造を行っていたビジコン社は、OEM の相手先ごとに様々な電卓とそれに用いる IC チップを作り変える必要があった。

しかし これにはたいへんな人手と時間を要し、IC チップメーカーも製造を引き受けたがらなかった。 このため ビジコン社は電卓の機能の変更について、IC チップの設計変更などハード面の対応ではなく、プログラムの変更というソフト面の変更で対応する方式をとることを考えた (これがいわゆる「ストアード・プログラミング方式」である)。

このため同社は、当時新興のインテル社とこうした電卓を実現するために必要な LSI の設計製造契約を結び、同社が設計した論理回路をもたせ3名の社員をインテル社に派遣した。

このチップの開発過程で世界で最初のマイクロ・プロセッサ 4004 は完成した。 すなわち世界で最初のマイクロプロセッサは、米国インテル社とわが国のビジコン社の協同開発により完成したといっていいだろう。

この 4004 を世界で初めて搭載した電卓が 141PF である。 1971年10月に発売され、当時の価格は 159,800円 であった。 この電卓は、マイクロ・プロセッサを搭載しているため、ROM によるプログラムを追加するだけで新しい機能を追加することができた。

また この電卓は、電卓用としては比較的大容量の RAM が使用可能だったため、最高8ストロークのキーボード用入力バッファが設けられており、印字中でもキー入力ができるという当時としては先進的な機能も有していた。
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※追加3_「米インテル社がマイクロコンピュータと称される初めての製品 4004 を出して,世の注目を集めたのは1971年であった。 その後の,マイクロコンピュータ技術の急速な発展と,広範な分野に適用されていった姿は,実に驚くばかりである。 図を見ていただきたい。

今回本誌が調査したものだけでも,20種を超える機種が現在入手可能な状況にある。 現在米国だけでなく国内においても半導体メーカーのほとんどが何らかのマイクロコンピュータを手がけるに至っている。

本誌が初めてマイクロコンピュータの解説を行ったのは1972年10月である。 そこで「わずか1年ばかりの間にこれだけ多くのマイクロコンピュータ・システムが市場に現れたことは,とりもなおさず 今後の爆発的な “マイクロコンピュータ時代” の到来を暗示していると言ってよかろう」と述べたことがまさに現実の姿となった。

また 奇しくも,その解説時点が第2世代マイクロコンピュータの開発開始時期でもあった。「マイクロコンピュータ時代」はその翌年(1973年末) に第2世代マイクロコンピュータ (インテル 8080,東芝 TLCS-12) の登場という形で開かれた。…」
 
以上は,筆者 (松崎 稔) が本誌1975年5月19日号に掲載した記事の書き出しである。

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